ニューノーマルと呼ばれる昨今、人々のライフスタイルへの意識や、働き方などが大きく変容している。建築とその周辺領域に対して求められる職能もまた、変化が求められている。
「WEB OZONE」では、建築を中心とするクリエイターたちがどのように働き、経営者として事務所を切り盛りしているのか? 彼らの「仕事術」を明らかにすることで、読者それぞれの仕事にも置き換えて、考えるきっかけになればと考えている。
国立市谷保に、シェアする商店≪富士見台トンネル≫を開業し、自身の設計事務所・junpei nousaku architects(ノウサクジュンペイアーキテクツ)も置いている建築家の能作淳平氏。その「仕事術」を聞くインタビューの後編。
※特記なき画像はすべて、ノウサクジュンペイアーキテクツ提供
能作氏の事務所のカンパニープロフィールには、「建築設計事務所でありながら、シェアする商店《富士見台トンネル》の運営もする。つくることだけでなく、使うことの実践を通して活動全体をデザインすることを目指し」ていることが謳われている。《富士見台トンネル》とは、能作氏が設計活動の規模を縮小してまで実現させた、他にあまり類のない会員制の「シェアする商店」。コロナ禍の危機を決断で乗り越え、順調に稼働中だ。
インタビューの前編では、「シェアする商店」の概要、立ち上げの経緯と現状について話を聞いた。
後編では、今の能作さんをかたちづくった「修行時代」にスポットをあてる。そして、次なる構想が明らかに。「シェアする商店」の進化系「シェアするみんなのコンビニ」とは?
鋳物ブランド「能作」の本家の生まれ
ーご出身は富山県高岡市、鋳物鋳造のまちとして有名で、ご実家は、世界に知られた鋳物ブランドの能作(のうさく)さんです。
能作はい。祖父の代までは職人をやっていたんですが、父が鋳造の過程で出る気体が体質に合わなくて、洋服のセレクトショップを高岡で開きました。祖父は「好きなことをやれ」と言ってくれたそうです。
地元で知り合って結婚した母親というのが、なかなか変わった人で、デザイン事務所に勤めたり複数の職を経験して最後に、インテリアコーディネーターと、建築士の資格をとっちゃうような人だったんです。
ーお母さまの影響で、建築家になろうと?
能作かっこよく見えたんでしょうね。デザインや建築設計をやっている両親の友人たちが、夜な夜な我が家に集まって、酒を飲みながら「コルビュジエが~」とか議論しているのが。建築家ってかっこいいぞって。建築のことなんて何ひとつわかってないのに。小学生でコルビュジエのビデオを借りて見てました(笑)。それが、本物の「建築」に触れた最初の体験でした。
進路を決定づけた『Casa BRUTUS』
ー1つ上のお兄さんの文徳さんも建築家を目指して、東京工業大学に進まれましたね。
能作僕の場合、小学校の卒業文集に「将来は建築家になりたい」とか書いてたんですが、最終的に受験する大学が決まらずにいたんです。そんな時期に、たまたま、コンビニで手にした『Casa BRUTUS』が建築特集で、建築を教えている大学を紹介していた。小っさい記事でしたけど、でもそれを見て、受験する大学を決めました(笑)。
ー東京都市大学(武蔵工業大学、通称ムサコウ)の建築学科に合格し、2002年に上京。当時のムサコウは、どなたが教えていましたか。
能作前年に《屋根の家》が竣工していた手塚貴晴さんが、その当時は専任講師でした。僕は手塚作品が大好きだったから、入学式の日に、手塚さんのトレードマークの青いシャツを目掛けて突撃して、初対面で「僕、建築家になりたいんです!」って、とんでもない挨拶をした(笑)。当時はスター建築家になりたかったのでね。イタいやつでした。
大いなる挫折を経て、アトリエ系事務所へ
ー2006年に大学を卒業後、長谷川豪建築設計事務所に勤務した経緯を聞かせてください。
能作本当はねぇ、僕は大学院に行きたかったんですよ。成績はたぶん悪くなかったんですが、当時の僕は人間性にちょっと問題があって、アハハ。卒業設計の下馬評で太鼓判を押されていたのに、肝心の講評会で先生と大喧嘩して台無しにしちゃうような学生でした。さらに、他の大学の院入試にもことごとく落ちた。ショックでしたね。
どこにも行くところがなくて、ブラブラしてたら、兄がいた東工大の先輩で、西沢大良さんの事務所から独立していた長谷川豪さんが、「ヒマなら、手伝ってよ」と声をかけてくれた。僕はムサコウ生でしたけど、東工大にも模型づくりの手伝いに行ってたから、知り合いも多くて、身体の半分は東工大生みたいなもんでした(笑)。手伝うくらいならと軽い気持ちで長谷川さんのとこに行ってみたら、通算で4年も働いていました(笑)。
ーでも、つまりは能作さんが長谷川事務所の黎明期を支えた。
能作僕が入った2006年は、所員も少なく、《森のなかの住宅》をはじめ、桜台、五反田での住宅作品が立て続けに竣工して、相当に忙しい時期でした。でも、どうしてもやっぱり大学院に行きたくて、1年で辞めさせてもらったんです。そうしたらそのあと、担当した《五反田の住宅》が『新建築』に掲載されることになり、長谷川さんに「撮影があるから、来ない?」と誘われて、それはせっかくの記念だしと行ってみたら、そこから元の鞘に戻っちゃった(笑)。長谷川事務所では、今思えばチーフ的な立場も経験させてもらいました。独立して、自分の事務所を設立したのが、2010年です。
「郊外」への偏見をハズしてみる
ー2014年に、ご自宅と事務所をこちらの国立市谷保のUR団地に移す前は、事務所は西麻布にあった。都心への未練はなかったのですか?
能作なかったです、全く。むしろ、ワクワクしてました。こういうパターンってないよなって。郊外って、こう言っては失礼だけど、あまり文化がなさそうだなとか先入観があったのですが、いざ住むことになってみると、クリエイターにとっておもしろい環境なんじゃないかと思えたんです。夜はあっという間に真っ暗になるけど(笑)。考えようによっては、別荘地のようなラグジュアリーさがあるな、なんて。よし、じゃあ、この場所で、なにかテーマを見つけて、定義づけられたらいいなってずっと思ってました。このまちならではのクリエイションってなんだろう? なにかおもしろい場所がつくれたらいいなって。
能作例えば、設計事務所だったらこう、受注のしかたはこうあるべき、建築家ならこうあるべき、こういう職能をやるべきっていう、いろんなイメージがあると思うんですけど、僕は、そういう固定化されたイメージどおりに振る舞うのが苦手な性質(たち)で。たぶん、あまのじゃくなんでしょうね。
「国立みたいなベッドタウンで、しかも団地で、設計事務所をやるってなんなの?」って他人(ひと)に言われちゃうようなことをやるほうが、僕には合っていたし、自分の置かれた状況について深く考えて、知ることができた。逆境のほうが、なにかおもしろいことができそうだと、郊外に引っ越してきたからこそ、気付くことができたのかもしれませんね。