ニューノーマルと呼ばれる昨今、人々のライフスタイルへの意識や、働き方などが大きく変容している。建築とその周辺領域に対して求められる職能もまた、変化が求められている。
「WEB OZONE」では、建築を中心とするクリエイターたちがどのように働き、経営者として事務所を切り盛りしているのか、「仕事術」をテーマにインタビューを行うシリーズを2022年3月よりスタートしている。
彼らの「仕事術」とはどのようなものか? 読者それぞれの仕事にも置き換えて、考えるきっかけになればと考えている。
今回は、建築家の冨永美保氏にインタビューを行った。芝浦工業大学と横浜国立大学大学院建築都市スクール(Y-GSA)で建築を学び、学生時代から縁を深めた横浜市内に設計事務所・トミトアーキテクチャ(tomito architecture)を構える建築家である。
8人のスタッフを抱える経営者であり、個人邸、住宅兼ヘアサロン、福祉支援施設、社員寮併設複合施設、公立図書館などさまざまなプロジェクトが進行中、かつそのほとんどが年内に竣工する。
多忙な設計活動の合間をぬって、横浜・黄金町にある事務所にて話を聞いた。
Y-GSA修了後に住宅改修を手掛け、その勢いのまま事務所を設立
ーこちらのトミトアーキテクチャさんの事務所は、横浜の丘の上、住宅街のど真ん中の庭付き一戸建て。下見張りの渋い木造平家で、昭和の香り漂う素敵な職場ですね。
冨永年末の大掃除の名残りが庭先に積まれていて、お恥ずかしい(笑)。
ー大学院(Y-GSA)の先輩だった伊藤孝仁さんと2014年にトミトアーキテクチャを設立。そのきっかけとなった最初のプロジェクト《CASACO》も、此処と同じ山にある、隣町に建っていた住宅の改修でした。
冨永はい。この横浜で知り合った方が最初のお施主さんでした。当時の私たちと同じ年代(20代前半)の方で、子どもの教育や留学生を支援するNPOも運営されていた。お金はないんだけど、自分たちがやってきた公共的な活動を横浜の丘の上の住宅地の中で新たにやってみたいんだと相談されました。
ー冨永さんも、当時のパートナーだった伊藤さんも、大学院を修了してわりとすぐの頃ですよね。
冨永そうなんです。当時で築50年の木造2階建て、かなり年季が入った建物で、構造的に補強して、ホームステイもできるシェアハウスに改修しました。地域に対して開かれたサロンとして、キッズクラブが学童、日曜日には朝ごはんを出す食堂など、シェアハウスを超えた使われ方に展開しながら、現在も運営されています(運営:NPO Connection of the Children)。
ー最初のプロジェクトとしては、かなりハードな現場だったのでしょうね。
冨永お施主さんを含め、地域住民や同志たちと運営団体をつくり、彼らと一緒に解体作業もやりました。大変だったけど、おもしろかった。
最初の相談から完成まで2年ほどかかっているのですが、その間に横浜市の助成金制度(ヨコハマ市民まち普請事業)に申請したり、それに伴って、地域の人々との関係づくりや、運営方針の検討をしたり、完成後の使われた方とか運営まで、設計を超えて、いろんなことを経験させてもらいました。
まちの生態系のネットワーク「出来事の地図」から設計を考える
冨永この《CASACO》の最初の頃、改修前のボロボロだった現場に出たり入ったりしていたら、近所の人たちから怪しまれてしまって(笑)。じゃあ、私たちが何者か、何をやろうとしているかわかるようにしようと、「東ケ丘新聞」という、この丘に住んでいる300世帯に向けた超ローカルな地域新聞を月に1回発行して、町内会にお願いして回覧板に入れてもらうようにしました。そうしたら徐々に「こんなことしたいんだね」と理解して、応援してくれる人が現れて、いろんなまちの情報を教えてもらえるようになりました。この坂の上に空き家があるよとか、誰某さんを訪ねたら古い家具とか石をもらえるかもよとか、丘の上の野毛山公園に公共プールがあったんだけど今は閉鎖しちゃったんだよねとか、そういう“まちの小話”とか、小さなニュース、歴史とか。
冨永このプロジェクトで学んだことは、これっておもしろそうだな、正しいんじゃないかなと思ったことは、お金がなかったり現実に状況が追いついてなくても、社会と結びつける回路を見つけることができれば、設計を通して絶対に実現できるのではないか、ということ。
その土地で生きる人たちと話をして、何かを発見することも、大学で教わるような建築設計とは違うんだけれども、これも設計の要素なんじゃないかと思うようになりました。まちの地勢と一緒に建物をどうするかを考えることが、この《CASACO》の現場では合ってるんじゃないかって。お施主さんから最初に聞かされていた「まちに対して開く」って、こういう経過を地域の中で踏んでいくことなんじゃないかって。 《CASACO》は、社会や個人、暮らしのネットワークそのものが、建築としてあらわれて、それがまちの生活をまた支えていくものになるということを最初に実感したプロジェクトでしたね。