ニューノーマルと呼ばれる昨今、人々のライフスタイルへの意識や、働き方などが大きく変容している。建築とその周辺領域に対して求められる職能もまた、変化が求められている。
「WEB OZONE」では、建築を中心とするクリエイターたちがどのように働き、経営者として事務所を切り盛りしているのか、「仕事術」をテーマにインタビューを行うシリーズを2022年3月にスタートした。
彼らの「仕事術」とはどのようなものか? 読者それぞれの仕事に置き換えてみる、そんなきっかけになればと考えている。
古い建物を壊さずに残し、その価値を再生する手法「再生建築」を提唱・実践する再生建築研究所 主宰の神本豊秋氏へのインタビューの後編。
前編では、代表作《ミナガワビレッジ》や、伝説的ライブハウス「渋谷エッグマン」を内包する《神南一丁目オフィスビル再生計画》などについての詳細な経緯を聞いた。
後編では、大分県別府市で進行中のプロジェクトや、これからの建築家に求められる能力などについても伺っている。
再生建築研究所代表の神本豊秋氏へのインタビューの後編。再生建築研究所の代表作の1つで、東京・表参道の閑静な住宅街で2018年にオープンした《ミナガワビレッジ》で話を聞いている。
10年前より「建築の不可能を可能に」をスローガンに、全国各地でプロジェクトを手がけてきた神本氏。彼らが手がける「再生建築」は、既存住宅に新たな魅力を吹き込み、その価値を引き上げるだけでなく、都市の既存の文脈にさまざまな「バグ」を引き起こす。そこで生じる予期せぬ「エラー」が、新たな可能性を創出し、住み手や周辺に住む人々にも波及していることが前編で語られた。
神本氏が建築の世界を目指し、再生建築を活動の軸としたきっかけとは何だったのか? 尋ねると、神本氏は「王道を進まず、間違いだらけの選択によって今の僕が形成された」と10代の頃を振り返った。インタビュー後編では、学生時代と独立直後のエピソード、さらには、現在進行形の最新プロジェクトや、神本氏が考える、今の社会に求められている建築家の職能なども語られた。
エラーの連続を経て今の自分がある
ーそもそも、神本さんはどのような経緯で建築家を志したのでしょうか。
神本母親の兄、叔父の影響です。叔父は、僕が生まれた大分県の地方で工務店を営み、設計から施工までひと通りを自分でやって、「俺は建築家や」と自称していました。自分で仕事を生み出して、図面や絵を書いて、建物をつくっている姿が子ども心にかっこいいと思ったんです。
夕方の5時頃には仕事を終わらせて、職人さんたちを自宅に集めてバーベキューやって、酒を飲んで、土日には子どもたちと野球をやる。そんな叔父の生活が、なにやら豊かに思えたのでしょうね。朝から晩まで、週末も休みなく働いていた僕の父親とは対象的でした。
僕は小学校の卒業文集に「建築家になりたい」と書いていて、建築家になるにはどうしたらいいんだろうってずっと考えてました。でも、中学校の進路相談で躓(つまず)いて、そこからの10代は間違いの連続、エラーの連続でした。
ーエラーの連続とは? 紆余曲折あったということでしょうか。
神本あの頃の僕のまわりに、建築家になるにはこうしなさいといった的確なアドヴァイスができる大人がいなかったんです。まず、中学校の進路相談の担当が保健体育の先生で、専門外。「建築家になりたいなら工業高校に行け」と指導されました。それも間違いではないのですが、建築学科がある大学を目指せとか、大学に入るには高校ではこういう勉強をしたほうがいいといった筋道の助言ではなかった。
いざ、工業高校に入ってみたら、卒業したら工務店に就職するという進路がごく当たり前で、先生に「いや、僕はそうじゃなくて建築家になりたんです」と言うと、「そんなの、なりたいなら大学を出ないとダメだ」と、そこで初めて言われたわけです。僕は中学のときそこそこ成績は良かったので、進学校に行こうと思えば行けたのですが、工業高校の教育は週の半分はコンクリートの打設とか実務が優先なので、例えば国公立のどこそこに行きたくても、独学で大学のセンター試験に挑まないといけなくて、かなり難易度が上がってしまったんです。
それでもなんとか学校推薦で建築学科がある大学に入れたものの、そこでまた知るわけです。大学の建築科を出たからといって誰もが建築家になれるわけではないと。例えば、学生向けコンペにひたすら応募して、入賞して実績を積んで、アトリエ系事務所に入って、独立して事務所を構える。これが建築家になるための王道だとして、当時の僕にはちょっとそこまでは無理でした。
でも、そんな王道を歩まず、バグだらけの、周りからあれこれと与えられる環境ではなかったからこそ、今の僕があるのだと思っています。
建物を根本的に治癒して再生させるために
ーそもそも、神本さんはどのような経緯で建築家を志したのでしょうか。
神本その数年前、もう俺は建築家にはなれないんだ、これからどうしようかと悩んでいた頃に、日本のコンクリート建築の平均寿命を調べる機会があって、統計によると30年くらいしかないと知り、驚きました。そんなに短いのかと。でも海外は古い建物がまちなかに残っていて、平均寿命も100年とかザラ。どうして日本では建物が取り壊されてしまうのかと疑問に思い、さらに調べてみたら、経年で耐震がダメになることが要因だとわかった。そこで、大学3年生では耐震工学を専攻しました。意匠を田舎の大学で学んでも、先々で使い道はないだろうなと見切りをつけて。ちょうどその頃、その研究室の出身で、既存建物を改修しながら建物の付加価値をあげるということをやられていた青木茂先生の存在を知りました。2004年にリファイニング建築を学ぶために青木茂建築工房に入り、そこから8年間お世話になり、いろいろなことを経験させてもらいました。
語弊があるかもしれないけど、20年くらい前になりますかね、リフォームと言わずにリノベーションというようになり、テレビでも取り上げるようになった頃、リノベーションは言わば「安い、早い、ウマい」というようなイメージで人気が出て、流行りましたよね。でも、建物の根本的な治癒まで至っていないケースが多かった。旧耐震の建物のファサードだけきれいにして、中身の構造はいじらずに、現法に適合しないまま、既得権で残り続ける。それじゃダメなんです。 既存建物を是正して活用するストック需要が高まり、不動産事業として、ビジネスとして評価される時代がいずれくるだろうと、僕はずっと思っていました。そうなった時には、設計事務所としての差別化が必要になるだろうとも。