建築家の山田紗子(やまだ すずこ)氏へのインタビュー後編。
前半では、現在の事務所の規模や進行中のプロジェクト、さらには2019年に竣工した自邸《daida2019》について話を聞いた。後半では、建築家を目指す前はどんな学生だったのか、影響を受けた師などについて話を聞いていく。
ランドスケープデザイナーを目指していた学生時代
ーインタビューの前半で、「建築の道に進む前に、ランドスケープのデザインにまず興味があった」と語っていました。その背景から教えてください。
山田紗子 動物ドキュメンタリーの制作を仕事にしている母親の影響で、小さい頃から動植物やその自然環境への興味がありました。それと、街なかに住んでいたので、手つかずの自然というものに憧れがあったのだと思います。 私は2003年に慶應義塾大学のSFC(湘南藤沢キャンパス:Keio University Shonan Fujisawa Campus)に入ったのですが、眺めていた大学のパンフレットに、SFCという新しいキャンパスの情報が載っていて、どうやらいろんなことができるらしい、ランドスケープデザインについて学べるようだ、なにかおもしろそうなことができそうだなと、高校生の目には映ったのです。あまり調べもせず期待感だけでSFCに進学しました。このときはまだ、建築家という職業があることすら知りませんでした。
ー当時のSFCではどなたが教えていらっしゃいましたか?
山田
建築史家の三宅理一さんが建築学系の授業を編成していて、設計は坂 茂さんや松原弘典さんが教えていらっしゃいました。ランドスケープデザインを専攻していた私も、環境デザインの設計演習で坂さんのエスキースを受けたことがあります。
ー坂さんの授業はどのような内容だったか覚えていますか?
山田
フランク・ロイド・ライトやル・コルビュジエといった近代の建築家の作品を参考に、一軒家を建てなさいという課題でした。坂さんの講評はものすごく厳しかったのを覚えています。ことあるごとに「あなたは建築に向いてませんね」と学生を厳しく突き放すので、授業のたびに必ず一人は泣かされるという(笑)。裏を返せば、ヤワな考えで建築家になっても挫折するだけだから、中途半端な志は早めに折っておこうという親心だったと思います。
ーでもまだそのときはランドスケープデザインを専攻中でした。どういったことを学んでいたのでしょうか。
山田
ランドスケープデザインは石川幹子先生に師事していました(現在、中央大学研究開発機構教授)。最近では神宮外苑の森を守ろうといった緑地保全や計画なども積極的に活動されています。
私は1年生のときから専門的なことに早く触れたいという気持ちがあり、1年生の最初の授業でSA(Student Assistant)に立候補して、研究室にも出入りし、ランドスケープデザインにどっぷりはまってました。当時のSFCはいろいろなことが自由で、おそらくほかにはない、ちょっと変わったプログラムだったと思います。1年生の1学期から研究室に入ることができたり、後になって試験なしで専攻を変えることもできた。例えば、1年の1学期に経済の研究室にいたのに、2学期はプロダクトデザインの研究室で、次の年には建築をやるとか。良く言えば、環境デザインやその他の分野を平たく学べる。見方によってはカルチャースクールのようだと当時は言われていました。
さらなる可能性を求めて建築の道へ
ーどのあたりでランドスケープから建築へと軸足が移っていったのですか?
山田 きっかけは先ほど話した坂さんの授業で、その後でいろいろと、建築とランドスケープの違い、やれることとやれないことがみえてきてからですね。 建築は、1つの力学的な構造体を最初にカチっと決めてしまえば、あとはそれに従ってプログラムとか家具なども決まっていくといった、パズルを解くような楽しさ、分かりやすさがあるなと思ったんです。それに対して、ランドスケープは、もっと面的で、建築よりはるかに多様な要素で構成されている。里山があって、水が流れていて、生き物がいて、食物連鎖があって、とある場所で水質が変わるといろんな箇所に影響が出る。そういった要素が何層にも重なりあい、それぞれで繋がり合っている。ランドスケープという広大な世界は、私ひとりの意見やデザインの力ではどうすることもできない。
ーなるほど。学生ならなおさら無力感を覚えてしまいそう
山田 それと建築は、ディスカッションが活発で、それが私にはおもしろかったのです。建築家の誰某が設計したあの住宅はここがいい、いや、ここが良くないとか、あれは誰某の模倣だとか、いや、それは再読というべきだとか。社会に対して、常に新しい価値をみんなで出し合っていた。 かたやランドスケープデザインの世界では、価値観は割と一定で、生物多様性がある方がいいとか、緑地が大きい方がいいとか、それとやはり保全という言葉がとても強く、そのままの状態を維持、あるいは20年前の状態を良しとするならば、そこから変えることを良しとはしないというか。 そんな感じで、SFCという同じキャンパスの中で、ランドスケープと建築の両方を眺めていて、最終的に、もっとちゃんと建築を勉強してからのほうが、私が本当にやりたいこと、都市に対してどのようなランドスケープがあり得るのかといった提案がしやすいのではないかと考えるようになりました。でも、大学を卒業してもなおどちらに進もうか悩んでいて、就職先も決めないまま、4月になってしまいました。
藤本壮介建築との運命の出会い
ープロフィールをみると、大学を卒業した年に藤本壮介さんの事務所に入るわけですが、卒業してそのまま入社したのではなく、ワンクッションあったのですね。
山田 そうなんです。今でも覚えているのが、4月のはじめの日、新宿西口のビル群を歩いていたとき、猛烈な焦燥感に襲われたこと。まわりのみんなは就職したり進学していたり。でも自分は何もしていない。これはまずいと。 そんなとき、大学の先輩から「代々木のGAギャラリーでおもしろい建築展をやっている、藤本壮介という建築家の模型がとてもよかった」と勧められ、見に行ったら、大分で進行中だったその《House N》の模型が展示されていて、建築とランドスケープが1つの場所で重なっている様(さま)に驚きました。
ー《House N》は、天井や壁に四角い開口がたくさん開いた、入子状の住宅です。2008年の竣工、藤本壮介さんの初期の代表作の1つですよね。
山田
藤本さんの事務所だったら自分がやってみたい建築に携わることができるのではないかと思い、その日すぐに電話で連絡して、インターン生として受け入れてもらえないかとお願いしました。そうしたら、藤本さん自身が電話に出られて、「いつでも来てください」と。あの頃の藤本事務所は猫の手も借りたいほど忙しかったからでしょう。行ったその日から《House N》の大きな模型づくりに加わりました。そうこうして1カ月くらいしたら、とある住宅設計のアイデアが通って、担当することになり、正式に社員に採用されました。
ートントン拍子ですね。満ち満ちていたパワーが引き寄せたというべきか。
山田
でも、図面は引けないし、建築のこともよくわかってないので、最初の頃は的外れなアイデアを出してしまったり。イチから建築を勉強しなおしたので、大変ではありました。
私が働いていた頃は、藤本さんが事務所にいる時間が長く、1日に4回も5回も打ち合わせがあり、指示が次々に飛んできました。そういう環境に身を置いていると、藤本さんがそれぞれのプロジェクトで何を目指していて、どこに注力し、逆にどこは抜いてもいいとか、だんだんとわかってくる。藤本さんに教わったことはとても大きかったです。
山田 当時の藤本さんは、いわゆる建築家然としていなくて、そういったことからは少し距離を置いていた。アカデミックな建築論よりも、人間本来の感覚を信じて建築をつくっていたと思うんです。こんな空間に座りたいとか、こんな家に住みたいといったプリミティブな感覚というものをすごく大事にしていた。今でもそういうところが大きいと思います。だから、私のようなほとんど建築を学んでいない者でも、逆におもしろがってくれて、4年間も務まったのではないかと思っています。